『道徳外の意味における真理と虚偽について』
ニーチェが1873年の夏に書き遺した未発表の草案について。
顫光を発しながら、無数の太陽系となって、注ぎ出された、この宇宙の、どこか一つの辺鄙な片隅に、かつて、認識というものを発見した怜悧な動物どもの住んでいた、一つの天体があった。 それは、「世界史」の中の不遜極まりない、しかもでたらめこの上もない、瞬間であった。
人間は認識とともに特権意識を獲得したらしい。 なんたる不遜。 この特権意識は人間の目を濁らせて、蚊にも蚊なりの認識があるということを全く隠してしまった。
個体の維持の手段としての知性は、その主要な力を、偽装ということにおいて、展開してゆく。
知性は本来的に弱体を補うためのものであり、偽装が本分だ。 真理への衝動は二次的のものとして理解するべきである。
人々は、この段階においても、根本的には、欺瞞を憎んでいるのではなく、或る種の欺瞞の良からぬ敵意ある結果を憎んでいるのである。 これと同様な限られた意味において、人間は、真理というものをも、欲しているにすぎないのである。
道徳というような虚言には平和協定としての利益がある。 だからまさしく真理として欲すべきものなのだ。 つまり人間は積極的に虚偽を真理として受け入れてきた。
一つの神経刺戟が、まず一つの形象の中へと転移される!これが第一の隠喩である。その形象が再び音において模写されるのである!これが第二の隠喩である。
言葉は二重の隠喩によって概念を形成している。 人間はいくつもの情報を喪失することによって本質を得たと錯覚しているのだ。 もしも道徳外の意味における純粋な真理を求めるのであれば、言葉の外にある空虚を目指すことになる。
それでは、真理とは、何なのであろうか? それは、隠喩、換喩、擬人観などの動的な一群であり、要するに人間的諸関係の総体であって、それが、詩的、修辞的に高揚され、転用され、飾られ、そして永い間の使用の後に、一民族にとって、確固たる、規準的な、拘束力のあるものと思われるに到ったところのものである。 真理とは、錯覚なのであって、ただひとがそれの錯覚であることを忘れてしまったような錯覚なのである、それは使い古されて感覚的に力がなくなってしまったような隠喩なのである、それは、肖像が消えてしまってもはや貨幣としてでなく今や金属として見なされるようになってしまったところの貨幣なのである。
人間は道徳的な慣習から虚偽を真理と見做してきた。 いつしか人間はこの構造を忘れ、ただ真理そのものを求めるようになった。 真理への衝動は忘却によって達成されたのだ。
このような真理を尋ねる探求者は、根本的に、ただ、世界の人間への変形を探しているにすぎないのであって、彼は、世界を、なにか人間的様式における事物として理解することに努力しているのであり、どんなに健闘してもせいぜい、同化の感情を獲得するにすぎないのである。
結局のところ真理の探求は人間の主観に終始している。 神話や占星術という隠喩がまさに真理の根源である。